フィリップ演じたホアキン・フェニックス

ホアキン・フェニックスも役者として、とても魅力的な俳優です。そしてフェニックスの姓にあるとおり、兄はリバー・フェニックスです。兄の方がもっと子供時代のことを鮮明に覚えていると思いますが、ホアキン・フニックスが誕生した生活環境は、両親ともに新興宗教に身をどっぷりと捧げた両親の元で誕生しています。そして兄と同じくホアキン・フェニックスもかつて両親がとっぷり信仰していた「神の子どもたち」なる新興宗教に対して「ひとの人生をだめにしている」と怒りとともに発言しています。

ホアキン・ラファエル・フェニックス

両親は1972年から1978年まで「神の子どもたち」なる新興宗教に属していたので、ホアキンが誕生した1974年はまだ両親共に信者として、「神の子どもたち」なる宗教グループでの生活でした。父親はカリフォルニア州フォンタナ出身で、母親はニューヨーク州ブロンクス出身ですが、父も母も宣教師と活動していたので生まれたのはプエルトリコのサンファンです。両親は1969年に結婚していますが結婚したときに「神の子供たち」に入信して熱心な信徒として活躍していました。

プエルトリコでホアキンが誕生したのも、「神の子供たち」の団体コミュニティが南米に形成されていたことからプエルトリコで生まれています。4歳年上の兄リバー・フェニックスは長男として生まれているので、ホアキンよりももっと教団の嫌な部分も近くで見ていたようです。子供心に、かなり強烈な「神の子供たち」の異常性をかんじたようで、後にこの宗教団体について告発していますが、兄はホアキンが1歳の頃に、妹と一緒に南米ベネズエラのカラカスで舞台に立って歌ったりして生活費の足しにとしていたようです。

両親も協会の腐敗と異常性に嫌気がさして、信仰心を失い宗教団体の「神の子供たち」から離脱したのが1978年です。そして両親そろって家族全員に新たな生活の門出に向けて姓も「ボトム」から灰からよみがえる「フェニックス:Phoenix」に改名してアメリカへと戻りました。ホアキン・ラファエル・フェニックスが4歳の頃です。

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貧しいフェニックス家

南米にコミュティを繰り広げいた「神の子供たち」から離れてアメリカへ帰国したフェニックス一家ですが、生活基盤がまったくない状態だったのでとても貧しい生活でした。兄弟は5人兄妹なので食事を与えるだけでもかなり厳しい暮らしだったことが想像できます。もちろん両親ともに働いて生活費を工面しようと頑張ってはいましたが、兄妹でストリートパフォーマンスをして歌を歌ったり、演奏をしたりすることで金銭を恵んでもらい、生活費を稼いでいました。

母親がNBCの仕事に就いたことで、兄リバーは10歳で初めてテレビに出演します。ちょうど子役を探していたことから、エキストラとして雇われてやがてCMにも出演するようになりました。このことがキッカケとなって、兄のリバー・フェニックスと妹レイン・フェニックス、サマー・フェニックスは子役として活動するようなり、特に兄のリバー・フェニックスは1985年映画「エクスプロラーズ」に出演して映画俳優としてもデビューしました。

1992年「スタンド・バイ・ミー」で大ブレイクを果てたしていますが、フェニックス家に車を買うようになったのは、兄リバー・フェニックスが「スタンド・バイ・ミー」で有名になってからようやく車が買えるようになりました。

ところが、兄や妹たちは芸能活動を開始していましたがホアキンの方はというと?!芸能活動する兄弟とは距離を置いて、父親と一緒に南米を巡る旅などにも出ています。南米はスペイン語圏ですがこの経験が生きているのでしょうか?!ホアキンはいまでもスペイン語を大変流暢に話すことができます。

俳優としてのホアキン

1982年についにホアキンも俳優の道に進む決意を固めます。最初のころはホアキンではなく、リーフ・フェニックスという名前で活動していますが、兄のリバー・フェニックスが出演していたテレビシリーズで初演を果たしました。リーフからホアキンになったのは、15歳の時からです。映画の出演は1986年『スペースキャンプ』、翌年1987年には『ラスキーズ』で初主演を務めています。1980年代後半から1990年代後半にかけて、映画やテレビで子役として出演を重ねていきました。

宗教っていろいろありますね

兄の死

リバー・フェニックスは1993年10月31日に23歳という若さで、オーバートーズのため亡くなっていますが兄が亡くなった事故現場にもホアキンはいました。事件があった時、ジョニー・ディップが共同所有者のひとりでもある、ウエスト・ハリウッドのナイトクラブ「ザ・ヴァイパー・ルーム」です。このクラブはハリウッドの中でも、とての人気の高いクラブで若い俳優やミュージシャン達のたまり場として存在しています。

その日は兄と一緒にホアキンもクラブへいました。そしてレッド・ホット・チリペッパーズのギターリスト、ジョン・フルシアンテ、リバー・フェニックスがクラブでパフォーマンスをするために集まっていました。その日、楽屋では誰かがコカインをだして回しました。すでにかなり酔っ払っていたリバー・フェニックスは動ける状態ではないほどの状態でした。見た目は15ラウンドでボコボコになったようなボクサーのような姿になっていたほどです。そしてそのあとに、別のバンドが演奏中に血の気を引いた顔をして気分が悪いことを訴えています。そしてリバー自身もオーバードーズしているんだと思うというほど、状態の良くない様子でした。ところが少したち、気分も良くなったのかクラブの外へでた直後でしょうか。ものすごい叫び声がしました。それはリバーの恋人サマンサ・マシスの叫び声です。そのときには日付が変わり10月31日ハロウィンの朝になっていました。

クラブの入り口で倒れたリバーは、腕と脚がてんかんの発作のように震えていました。ホアキンも兄の様子がただことではない様子に、平静さを失い救急隊員へ電話しています。結局そのままリバー・フェニックスはわずか23歳という若さで将来がとても嘱望されるほど、有望な役者のひとりでしたが残念なことに亡くなってしまいました。

兄が亡くなった現場に一緒にいたホアキンは、救急隊員へ連絡しますがその通話記録が繰り返しテレビで放送されます。リバー・フェニックスは「スタンド・バイ・ミー」でブレイクした後、「旅立ちの時」でアカデミー賞助演男優賞にノミネート、そして1991年「マイ・プライベート・アイダホ」ではヴェネツィア国際映画祭の男優賞を受賞と、スターへの階段を駆け上がっていた最中で大人気の若手スターの突然の死に、ファンはもちろんのこと大きなニュースになったことから、現場に居合わせたホアキンへも過剰なマスコミ取材攻勢にホアキンはすっかり嫌気がさしてしまったため、一時期映画界から距離を置くようになりました。

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